流されたって選ぶことはできると思う

最近FinalFantasyⅧ Remasteredをプレイしている。
僕はこのゲームが大好きだ。

小学生のころ家にこのゲームのオリジナル版があり、新しいゲームもあまり手に入れられなかった僕は繰り返しこのゲームで遊んでいた。

青臭さに満ちたストーリー、ストーリーや世界設定と密接に絡んだゲームシステム、シリーズで初めてキャラの頭身がリアルに近くなったグラフィック、学園モノというFFシリーズの中でも異色の設定、近代的な街並み、それら全てが好きだった。

ちなみにオープニングが一度クリアして初めて意味がわかるようになっているというのも好きな演出の一つだ。

主人公たちは17歳前後の、大人と呼ぶにはやや早く、かといって子供と呼ぶには成熟している面々で、27歳になる今となっては見ていてやや恥ずかしくなるようなセリフもバンバン飛び出してくるのだが、それもまたこの作品の魅力の一つだと思う。
(恥ずかしいとか言ってるけどそういうセリフがなんだかんだ好きだし、自分も似たり寄ったりなことを言っている気がする。)

中でも、ストーリーの非常に重要な場面で主人公たち一行の一人であるアーヴァインが放つセリフは僕の中に大きく残り続けている。

ほら、よく言うだろ~?
人生には無限の可能性があるってさ~。
僕はそんなの信じてないんだ。
いつだって選べる道は少なかった。 時には道は1本しかなかった。
その、少なかった可能性の中から自分で選んだ結果が僕をここまで連れてきた。
だからこそ僕はその選んだ道を……選ばなくちゃならなかった道を大切にしたい。

あまり裕福ではない家庭で育ち、選択肢なんてそれほど見出せなかった僕にとってこのセリフの持つ衝撃は凄まじいものだった。
今の自分の在りようを決定づけた要因の一つだと思う。

「選ばなくちゃならなかった道を大切に」するというのは、「どのように関わるのかを自分で決める」ということなのではないかと思っている。

経済的要因や周囲の人間関係、自身の能力、所属している組織やコミュニティーの方針などによって自分が選びたかった道を選べないことなんて山ほどある。
というかほとんどの場合がそうしたある程度は消極的な選択で、自分の選びたいものをその通りに選べることなんて数えるほどしかないんじゃないだろうか。

ただ、これらの選択はあくまでも「何をするか」であって「どのようにやるか」ではないと思う。

そこから何を学ぼうか、どうやって自分にとって楽しいやり方にしていこうか、どうしたら効率よくやれるだろうか、そうした自分の意思や考え方に関しては少なくとも選択の自由がある。

押し付けを正当化するつもりもないし、選択肢が多い方がいいだろう。僕自身、人に考えを押し付けられたり何かを強制されるのなんて大嫌いだ。

それでも目の前の、代わりなんてなかった、流されるしかなかった道をどう進んでいくのかを考え続けることはきっと人生を豊かなものにしてくれると思う。
僕の周囲の楽しそうな人たち、魅力的な人たちはそう生きているように見える。

自分で選んだという自負があればこそ、得た結果が望むものではなかったとしても、少しは先に進んでいけるんじゃないだろうか。

リマスター版をプレイし、久々に目にする青臭いセリフに影響されてそんなことを考えた。

余談だが、シリーズの中でもう一つの好きな作品であるFinalFantasy Ⅹでは「無限の可能性」がポジティブな意味で使われる。
あれも結局のところ「やり方を自分たちで考える」という、進み方の自由を指して「無限の可能性」と言っているんだと思う。

ストーリーも中盤だが、大人になった自分はこれから、子供のころの遊んでいたゲームからどんなメッセージを受け取っていくのか楽しみにしている。